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04 — 人物録

人口5万に満たない町が、
総理大臣を4人送り出した。

維新の志士や実業家として他ページで詳しく紹介した人物のほかにも、萩は驚くほど多くの著名人を輩出しています。 政治・軍事・工芸・学術――分野の異なる人々を、まとめて紹介します。

山縣有朋の肖像写真
山縣有朋 —— 萩生まれの総理大臣の一人

まず結論

萩が生んだ、4人の総理大臣

いずれも幕末の萩に生まれ育ち、明治・大正期の日本を率いた人物です。

山縣有朋の肖像写真
1838–1922

山縣有朋 やまがた ありとも

第3・9代内閣総理大臣/萩城下川島村生まれ

奇兵隊の軍監として活躍したのち、陸軍の基礎を築き「国軍の父」と呼ばれた。内閣総理大臣を2度務め、元老として長く政界に影響力を持った。

桂太郎の肖像写真
1848–1913

桂太郎 かつら たろう

第11・13・15代内閣総理大臣/萩城下平安古生まれ

通算在任日数は歴代最長(当時)。日英同盟の締結や日露戦争の遂行など、日本が列強と渡り合う時代の舵取り役を務めた。

田中義一の肖像写真
1864–1929

田中義一 たなか ぎいち

第26代内閣総理大臣/萩生まれ

陸軍軍人から政界に転じ、立憲政友会総裁として組閣。萩の下級武士の家に生まれ、実力で総理の座まで上り詰めた人物として語られる。

伊藤博文の肖像写真
1841–1909

伊藤博文 いとう ひろぶみ

初代・第5・7・10代内閣総理大臣

「維新の志士たち」で紹介した通り、初代内閣総理大臣を務め、大日本帝国憲法の起草を主導した。松下村塾に学び、萩で青年期を過ごした。

伊藤博文の「生まれ」について: 伊藤博文の出生地は、厳密には現在の光市(旧・熊毛郡束荷村)で、萩ではありません。1849年、8歳の頃に一家で萩へ移り住み、松下村塾にも学びました。 「萩が生んだ総理大臣は4人」という語られ方をする際、伊藤はこの「萩育ち」という経歴を根拠に含まれています。 出生地まで厳密に萩城下に限ると、山縣有朋・桂太郎・田中義一の3人になります。本ページでは、広く親しまれている「4人」という紹介のしかたを採用しつつ、この違いを併記しています。

数字で見る

26代のうち、10代は萩出身者だった

内閣制度が始まった1885年(初代)から1929年(第26代)までの間、総理の座は実に10回、この4人の間で占められています。

伊藤博文
4回(初・5・7・10代)
桂太郎
3回(11・13・15代)
山縣有朋
2回(3・9代)
田中義一
1回(26代)

帯の幅は4人合計10回のうちの内訳です。初代から26代までの間、萩出身者が首相を務めていた年はおよそ4割にのぼり、いかに萩・長州の人脈が明治から大正にかけての中央政界を占めていたかがうかがえます。

くわしくは別ページで

維新の志士・実業家は、既出の顔ぶれ

吉田松陰・高杉晋作・木戸孝允・伊藤博文といった幕末の志士たちは「維新の志士たち」のページで、 藤田伝三郎・久原房之助・鮎川義介という血縁でつながる実業家一族は「近代を築いた実業家」のページで、それぞれ詳しく紹介しています。 このページでは、それ以外の分野で名を残した萩出身者を中心に取り上げます。

維新の志士たちを読む → 実業家たちを読む →

政治・軍事

中央政界・軍を支えた萩人脈

総理大臣以外にも、明治政府の要職に就いた萩出身者は少なくありません。

品川弥二郎の肖像写真
品川弥二郎1843–1900内務大臣を務めた元奇兵隊士。産業組合運動の推進者としても知られる。
山田顕義の肖像写真
山田顕義1844–1892初代司法大臣。法典整備を主導し、日本大学・国学院大学の前身を創立した。
佐久間左馬太の肖像写真
佐久間左馬太1844–1915陸軍軍人。第5代台湾総督として長く台湾統治に携わった。

工芸・美術・学術

土と筆が伝えた、もう一つの萩

政治や軍事だけでなく、工芸や美術、学問の分野でも萩出身者は名を残しています。

三輪休和の肖像写真
三輪休和1895–1981萩焼の陶芸家。人間国宝(重要無形文化財保持者)に認定された。
三輪壽雪の肖像写真
三輪壽雪1910–2012休和の弟。同じく萩焼で人間国宝に認定され、兄弟そろって萩焼の名を高めた。
森寛斎の肖像
森寛斎1814–1894幕末・明治期の日本画家。四条派を学び、京都画壇で活躍した。
松林桂月の肖像写真
松林桂月1876–1963南画の流れを汲む日本画家。帝室技芸員にも任じられた。
山根正次の肖像写真
山根正次1857–1925医学者・衛生行政官。日本医学専門学校(現・日本医科大学)の設立に関わった。

萩焼と三輪家の兄弟については、「自然と食」のページでも土地の自然素材が育んだ工芸として紹介しています。

なぜこれほど多いのか

人口5万足らずの町から

現在の萩市の人口は5万人に満たず、最盛期の萩城下人口も数万人規模だったと考えられています。 それでもこれだけの人材を輩出した背景には、藩校明倫館・松下村塾をはじめとする教育密度の高さ(「学びの町」のページで詳述)と、 幕末の動乱期に藩をあげて人材登用を進めた長州藩の気風があったといえるでしょう。 一方で、これらの人物の多くは維新後に東京や大阪など中央へ出ており、萩そのものに残った実業や産業の担い手は限られていたことも事実です。 「古き良き町並み」のページで触れる城下町の保存も、こうした人材の中央流出と無縁ではありません。

明治政府の要職が薩摩・長州出身者に偏っていたこと自体は、当時から「藩閥政治」として批判の対象にもなっていました。 とりわけ長州閥は、伊藤博文・山縣有朋・桂太郎という3人の総理経験者を中心に、陸軍・内務省・宮中にまで人脈を広げ、 明治から大正にかけての日本の政治構造そのものを長く規定していきます。人口5万に満たない城下町の出身者たちが、 これほど国政の中枢に食い込んだ例は、日本の近代史のなかでも際立って特異なケースといえるでしょう。

ゆかりの地を歩く

人材を育てた町のかたち

ここで紹介した人々を直接育てたわけではなくとも、萩という町がどのように人材を育てる土壌になっていたかを伝える場所が、今も残っています。

萩・明倫学舎の本館
萩・明倫学舎旧明倫館の地
武家屋敷の白壁と土塀
武家屋敷群堀内地区
淡い枇杷色の釉薬と白い斑が景色をなす萩焼の茶碗
萩焼三輪家の技

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彼らが去った町に、何が残ったか

人材が次々と中央へ出ていった一方、萩の城下町そのものは意外な理由でほとんど姿を変えませんでした。

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