まず結論
いずれも幕末の萩に生まれ育ち、明治・大正期の日本を率いた人物です。

第3・9代内閣総理大臣/萩城下川島村生まれ
奇兵隊の軍監として活躍したのち、陸軍の基礎を築き「国軍の父」と呼ばれた。内閣総理大臣を2度務め、元老として長く政界に影響力を持った。

第11・13・15代内閣総理大臣/萩城下平安古生まれ
通算在任日数は歴代最長(当時)。日英同盟の締結や日露戦争の遂行など、日本が列強と渡り合う時代の舵取り役を務めた。

第26代内閣総理大臣/萩生まれ
陸軍軍人から政界に転じ、立憲政友会総裁として組閣。萩の下級武士の家に生まれ、実力で総理の座まで上り詰めた人物として語られる。

初代・第5・7・10代内閣総理大臣
「維新の志士たち」で紹介した通り、初代内閣総理大臣を務め、大日本帝国憲法の起草を主導した。松下村塾に学び、萩で青年期を過ごした。
数字で見る
内閣制度が始まった1885年(初代)から1929年(第26代)までの間、総理の座は実に10回、この4人の間で占められています。
帯の幅は4人合計10回のうちの内訳です。初代から26代までの間、萩出身者が首相を務めていた年はおよそ4割にのぼり、いかに萩・長州の人脈が明治から大正にかけての中央政界を占めていたかがうかがえます。
くわしくは別ページで
吉田松陰・高杉晋作・木戸孝允・伊藤博文といった幕末の志士たちは「維新の志士たち」のページで、 藤田伝三郎・久原房之助・鮎川義介という血縁でつながる実業家一族は「近代を築いた実業家」のページで、それぞれ詳しく紹介しています。 このページでは、それ以外の分野で名を残した萩出身者を中心に取り上げます。
政治・軍事
総理大臣以外にも、明治政府の要職に就いた萩出身者は少なくありません。



工芸・美術・学術
政治や軍事だけでなく、工芸や美術、学問の分野でも萩出身者は名を残しています。





萩焼と三輪家の兄弟については、「自然と食」のページでも土地の自然素材が育んだ工芸として紹介しています。
なぜこれほど多いのか
現在の萩市の人口は5万人に満たず、最盛期の萩城下人口も数万人規模だったと考えられています。 それでもこれだけの人材を輩出した背景には、藩校明倫館・松下村塾をはじめとする教育密度の高さ(「学びの町」のページで詳述)と、 幕末の動乱期に藩をあげて人材登用を進めた長州藩の気風があったといえるでしょう。 一方で、これらの人物の多くは維新後に東京や大阪など中央へ出ており、萩そのものに残った実業や産業の担い手は限られていたことも事実です。 「古き良き町並み」のページで触れる城下町の保存も、こうした人材の中央流出と無縁ではありません。
明治政府の要職が薩摩・長州出身者に偏っていたこと自体は、当時から「藩閥政治」として批判の対象にもなっていました。 とりわけ長州閥は、伊藤博文・山縣有朋・桂太郎という3人の総理経験者を中心に、陸軍・内務省・宮中にまで人脈を広げ、 明治から大正にかけての日本の政治構造そのものを長く規定していきます。人口5万に満たない城下町の出身者たちが、 これほど国政の中枢に食い込んだ例は、日本の近代史のなかでも際立って特異なケースといえるでしょう。
ゆかりの地を歩く
ここで紹介した人々を直接育てたわけではなくとも、萩という町がどのように人材を育てる土壌になっていたかを伝える場所が、今も残っています。
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人材が次々と中央へ出ていった一方、萩の城下町そのものは意外な理由でほとんど姿を変えませんでした。