総大将、毛利輝元
「関ヶ原の西軍大将は毛利元就」と記憶されていることがありますが、これは代替わりを一つ挟んだ誤解です。 毛利元就は中国地方十カ国をほぼ手中に収めた毛利家の礎を築いた当主ですが、関ヶ原の戦い(1600年)の29年も前、1571年に世を去っています。 西軍の総大将に担がれたのは、元就の孫にあたる毛利輝元でした。
もっとも輝元自身は、戦場には立っていません。大坂城に留まったまま、養嗣子の毛利秀元を関ヶ原へ向かわせ、 実際の作戦立案は石田三成が主導しました。さらに輝元の従兄弟にあたる吉川広家が、徳川方と水面下で交渉。 「毛利は戦わない代わりに、家の存続を保証する」という約束を取りつけていたため、南宮山に布陣した毛利の大軍は、 合戦が終わるまでついに動きませんでした。
関ヶ原の、その先にいた人々
総大将・毛利輝元の周囲には、家の存続を左右した何人もの人物がいました。彼らの選択が、萩という城下町の運命を決めました。
1553–1625
西軍総大将/のち初代萩藩主
元就の孫。西軍の名目上の大将に担がれるも自らは大坂城に留まり、戦場には立たなかった。戦後、防長二カ国への減封を受け入れ、萩に新たな居城を構える。
1561–1625
輝元の従兄弟/岩国領主
徳川方の黒田長政を介して水面下で交渉し、毛利家の存続を取りつけた立役者。南宮山の毛利軍を動かさなかったのも広家の判断による。戦後、改易回避のため奔走した。
1579–1650
輝元の養嗣子
南宮山に布陣した毛利軍を実際に率いたが、前方の吉川広家の軍に道を塞がれる形で、ついに一度も戦闘に加わらなかった。この故事は後に「宰相殿の空弁当」という逸話として語り継がれている(史料的な裏づけは乏しい)。
1560–1600
西軍実質指揮官
豊臣政権の五奉行の一人。家格の高さから輝元を総大将に担ぎ上げ、自らは西軍の作戦立案を主導した。関ヶ原での敗北後、捕らえられ同年10月に処刑された。
1543–1616
東軍総大将
戦前は井伊直政らを通じ「輝元をおろそかにしない」と誓約していたが、戦後、輝元の関与を示す証拠を得ると一転して起請文を反故に。1603年、征夷大将軍となり江戸幕府を開いた。
1561–1602
東軍武将
本多忠勝とともに毛利家存続を約す起請文に署名した当人。家康が約束を翻したことに異を唱え、結果的に処分は「改易」から「減封」へと和らげられた。
破られた約束
戦の前、徳川方の井伊直政・本多忠勝は連署の起請文で「輝元をおろそかにしない」と誓っていました。 戦後、その約束を信じた輝元は大坂城を明け渡します。ところが9月27日に大坂城へ入った徳川家康は、 輝元が実際には西軍の作戦に深く関与していた証拠を発見。10月2日、家康は起請文を反故にし、毛利家の取り潰し(改易)にまで傾きました。
吉川広家の必死の嘆願と、約束を違えることに異を唱えた井伊直政自身の抗議もあって、最終的に10月10日、 処分は「改易」から「減封」へと和らげられます。とはいえその中身は過酷でした。中国地方八カ国およそ120万石を治めていた毛利家は、 防長二カ国(周防・長門)のみ、実高で約29万7千石へ。岩国など分家の分を含めても約36万9千石ほどにまで、実に四分の一近くまで削られたのです。
↓ 防長減封(1600年10月)
なぜ萩だったのか
1603年、輝元は新たな居城の候補地として萩・山口・防府の三カ所を幕府に提示しました。毛利家としては、 政治・経済の中心地として発展していた山口を望んでいたともいわれます。しかし幕府が指定したのは、 日本海に面した辺鄙な港町、萩でした。表向きの理由は「要害の地」――防衛に適した土地というものです。
この選定について、幕府が毛利家をあえて政治・経済の中心から切り離し、力を削いだままにしておくための処置だった、という見方が広く語られています。 一方で、後の藩主・毛利敬親が萩の立地そのものに海運上の利点を見出したとする記録も残っており、断定はできません。 いずれにせよ1604年(慶長9年)、輝元は完成前の萩城に入り、城は1608年(慶長13年)に完成します。
毛利輝元、西軍の総大将として名を連ねるも参陣せず。戦後、大坂城を明け渡す。
中国八カ国・約120万石から、周防・長門二カ国・約29万7千石へ。
輝元、未完成の萩城に入る。家臣団・寺院も城下町の建設とともに萩へ移る。
以後260年余り、萩は長州藩の中心であり続ける。
城とともに萩へ移ったのは、大名家だけではありません。多くの家臣団、そして毛利家ゆかりの寺院も、旧領からこの地へ移転しました。 たとえば安芸吉田郡山城の時代から毛利家に付き従ってきた万福寺は、広島城を経て萩城下へ。 家臣たちの屋敷地も、禄高に応じて細かく区画が定められ(3,000石クラスで900坪、150石クラスで200坪、など)、 城下町は短期間で一つの行政都市として整えられていきました。今も萩に残る「寺町」の町並みは、この時代の移転の名残です。
この移転がもたらした影響は、城下町の景観だけにとどまりませんでした。かつて中国地方八カ国を治めていた頃とほぼ同じ規模の家臣団を、 収入はおよそ四分の一という所領で養わなければならなくなったのです。当然、一人あたりの禄高は大きく目減りし、 藩の財政は成立当初から慢性的な窮乏を抱えることになります。この財政難は一時的なものでは終わらず、江戸時代を通じて長州藩を悩ませ続け、 後年、身分にとらわれない人材登用や藩政改革、教育への投資(松下村塾もその流れの一つです)といった、 藩の立て直しを迫られる形で幕末の動きへとつながっていきました。「なぜ萩から、あれほど多くの志士が生まれたのか」という問いの答えの一端は、 この地味な財政構造のなかにも隠れています。
「時期尚早」の新年
萩にはこんな話が伝わっています。関ヶ原の敗戦以来、長州藩では毎年正月、家老が藩主にこう尋ねるのが習わしだった、と。
家老「殿、討幕の機は。」長州藩に伝わる正月儀礼の逸話
藩主「いや……時期尚早」
この静かなやりとりが260年余り繰り返され、ついに「その時」が来たのが明治維新だった――そう語られると、 たしかに胸のすく物語になります。ですが、史実としての裏づけは実のところ心もとないものです。
明治維新への伏流
「時期尚早」の逸話が史実かどうかはさておき、関ヶ原以来の防長二カ国という狭い所領、そして徳川への根深い不信感が、 長州藩という土地の気質に何がしかの影を落としたこと自体は、想像に難くありません。 250年以上のちの幕末、尊王攘夷から倒幕運動の中心地となったのが、他でもないこの萩・長州だったことは事実です。
とはいえ、「関ヶ原の恨みが明治維新の原動力だった」という説は、あくまで人気の高い通俗史観の域を出るものではありません。 専門の歴史研究では、藩財政の窮乏、身分を越えて人材を登用した藩政改革、松下村塾に代表される教育、諸外国からの軍事的圧力、 奇兵隊による軍制改革など、より構造的な要因が重視されています。260年前の恨みつらみだけで一つの藩が倒幕の中心に立ったと考えるのは、 いくらなんでも単純化しすぎでしょう。
それでも――萩という土地を歩くとき、この物語を知っているかどうかで、見える景色は変わってきます。 なぜ人口三万余りの城下町から、あれほど多くの志士や実業家が生まれたのか。その最初の一歩は、 1600年のある秋の日、大坂城で交わされ、そして破られた一つの約束にあったのかもしれません。
ゆかりの地を歩く
萩城跡や東光寺は本文でも触れましたが、ほかにも毛利家と防長減封の記憶をたどれる場所が市内に点在しています。
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その260年後、萩城下の小さな私塾から、後の総理大臣や陸軍の父となる若者たちが育っていきます。