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02 — 死罪を覚悟の渡英

鎖国の禁を破り、
5人はロンドンを目指した。

1863年、海外渡航が発覚すれば死罪という時代に、長州藩士5人が横浜港から密航しました。 目的は西洋の技術と制度を直接学ぶこと。後に「長州ファイブ」と呼ばれるこの若者たちが、 日本の鉄道・造幣・工学・法制・外交の礎を築くことになります。

1863年、ロンドンで撮影された長州ファイブの集合写真
1863年、ロンドンにて(萩博物館蔵)

密航の経緯

船底に隠れて、137日の航海へ

文久3年(1863年)、攘夷を掲げていたはずの長州藩は、藩の実力者・井上馨や伊藤博文らの働きかけで、ひそかに5人の藩士をイギリスへ送り出すことを決めます。 当時、幕府の許可なく海外へ渡ることは重罪でした。5人は横浜からイギリス商船ペガサス号に乗り込み、船倉のような場所に身を隠して日本を離れたと伝えられています。 上海を経由し、およそ4か月半をかけてロンドンに到着。ロンドン大学(UCL)で聴講生として学び始めました。

皮肉な2日間: 5人が横浜を密航したのは文久3年5月10日(1863年6月24日)。実はその2日前、同じ長州藩は攘夷を決行し、下関海峡を通る外国船への砲撃を開始していました。「外国を打ち払う」藩と、「外国に学ばせる」ために若者を送り出す藩は、同じ長州藩だったのです。5人自身も渡英の目的は当初、攘夷を実現するための軍事技術の習得でしたが、現地で欧米との国力差を目の当たりにし、攘夷を捨てて開国・近代化への道を志すようになります。
STEP 1
横浜
1863年5月10日
出航
STEP 2
上海
経由
STEP 3
ロンドン
1863年秋
到着
STEP 4
UCL
聴講生として
学ぶ
STEP 5
帰国
伊藤・井上は1864年
他3名は1866年

伊藤博文と井上馨は、四国艦隊下関砲撃事件の情報を新聞で知り、開戦を止めるべく1年足らずで帰国。残る山尾庸三・遠藤謹助・井上勝の3人はさらに学びを続け、1866年に帰国しました。

1863年、ロンドンで撮影された長州ファイブの集合写真
左上:遠藤謹助/中央:井上勝/右上:伊藤博文
左下:井上馨/右下:山尾庸三

写真:萩博物館蔵(萩市観光協会公式サイトより)

ロンドンで学んだこと

ユニバーシティ・カレッジ・ロンドン(UCL)にて

5人が学んだユニバーシティ・カレッジ・ロンドン(UCL)は、宗教や身分を問わず学べる、当時のイギリスでは数少ない大学の一つでした。 正規の入学資格を持たない日本人青年たちは「聴講生」という立場での受け入れとなりましたが、 化学者アレキサンダー・ウィリアムソン教授が身元引受人を買って出て自宅に住まわせ、化学・数学・土木・鉱山学など、 当時の日本にはまだ存在しなかった実学を手ほどきしたと伝えられています。

興味深いのは、この2年後の1865年、同じく攘夷を掲げていたはずのもう一つの雄藩・薩摩藩からも19人からなる使節団がひそかに渡英し、 うち14人が同じくUCLでウィリアムソン教授のもとに学んだことです。のちに初代文部大臣となる森有礼、大阪商法会議所を設立した五代友厚、 外交官として活躍した寺島宗則らを含むこの「薩摩十九人」は、長州ファイブとは別に、しかし同じ大学・同じ教授のもとで、 同じ時代に近代化への扉をこじ開けようとしていました。本来は犬猿の仲だったはずの薩摩・長州の若者たちが、 期せずしてロンドンの同じ教室で机を並べていたことになります。

UCLに残る記念碑: UCL構内の日本庭園には、1993年9月、長州ファイブと薩摩の留学生たちの先駆的な渡英を讃える記念碑が除幕されました。 鎖国下の日本から命がけで海を渡った若者たちの足跡は、今もロンドンの地に刻まれています。
UCL構内の記念碑。1863年・1865年に渡英した長州・薩摩の留学生たちの氏名が刻まれている
UCLの記念碑1993年除幕

帰国後

それぞれが持ち帰った「日本初」

密航という賭けは、日本の近代化に直結する5つの分野の礎として結実しました。

伊藤博文の肖像(渡英当時・後年) 1841–1909

伊藤博文

「内閣の父」/初代内閣総理大臣

大日本帝国憲法の起草を主導。詳しくは「維新の志士たち」のページへ。

井上馨の肖像(渡英当時・後年) 1836–1915

井上馨

「外交の父」/初代外務大臣

長崎製鉄所での国産鉄砲製造、国内初の鉄橋建設に関わったのち、造幣局知事、そして初代外務大臣として条約改正に尽力した。

山尾庸三の肖像(渡英当時・後年) 1837–1917

山尾庸三

「工学の父」/工部卿

グラスゴーで造船・機械技術を学び、帰国後は工部省の設置と工学寮(現・東京大学工学部)創設を建議。日本の工学教育の基盤を一人で築いた。

遠藤謹助の肖像(渡英当時・後年) 1836–1893

遠藤謹助

「造幣の父」/造幣局長

大阪造幣局の建設に携わり、後に造幣局長に就任。1889年、日本人技術者だけの手で銅貨の鋳造に成功させた。造幣局の桜並木「通り抜け」を創設したのも遠藤である。

井上勝の肖像(渡英当時・後年) 1843–1910

井上勝

「鉄道の父」/鉄道庁長官

1872年、新橋〜横浜間に日本初の鉄道を開通させた立役者。以後、東海道本線・東北本線の建設を主導し、鉄道技術者の育成にも力を注いだ。5人の中で唯一、萩城下の生まれ。

五傑
藩の禁を破ってでも、この目で西洋を見なければならない。
長州ファイブの渡航動機として、しばしば語られる趣旨(要約)

肖像写真(渡英当時・後年):萩博物館蔵、遠藤謹助のみ造幣局蔵(萩市観光協会公式サイトより)

史跡をめぐる

長州ファイブゆかりの地

渡航前の学びの場から、帰国後にそれぞれが築いた邸宅まで。萩の町を歩けば、5人の足跡に出会うことができます。

金毘羅社・円政寺の鳥居と境内
金毘羅社 円政寺晋作・博文ゆかり
旧萩藩校明倫館の観徳門
旧萩藩校明倫館5人の母校
井上勝旧宅の門と「鉄道の父 井上勝旧宅」の石碑
井上勝旧宅鉄道の父の生家跡
JR萩駅の駅舎と井上勝の銅像
JR萩駅井上勝の銅像
松下村塾の建物
松下村塾5人ゆかりの私塾
伊藤博文旧宅の茅葺屋根の建物
伊藤博文旧宅茅葺きの生家
伊藤博文別邸の玄関
伊藤博文別邸東京より移築

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密航者から実業家へ

長州の人脈は明治政府の中枢だけでなく、日本の産業界にも及びました。藤田財閥を興した藤田伝三郎、日産コンツェルンを築いた鮎川義介の物語へ。

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