密航の経緯
文久3年(1863年)、攘夷を掲げていたはずの長州藩は、藩の実力者・井上馨や伊藤博文らの働きかけで、ひそかに5人の藩士をイギリスへ送り出すことを決めます。 当時、幕府の許可なく海外へ渡ることは重罪でした。5人は横浜からイギリス商船ペガサス号に乗り込み、船倉のような場所に身を隠して日本を離れたと伝えられています。 上海を経由し、およそ4か月半をかけてロンドンに到着。ロンドン大学(UCL)で聴講生として学び始めました。
伊藤博文と井上馨は、四国艦隊下関砲撃事件の情報を新聞で知り、開戦を止めるべく1年足らずで帰国。残る山尾庸三・遠藤謹助・井上勝の3人はさらに学びを続け、1866年に帰国しました。
写真:萩博物館蔵(萩市観光協会公式サイトより)
ロンドンで学んだこと
5人が学んだユニバーシティ・カレッジ・ロンドン(UCL)は、宗教や身分を問わず学べる、当時のイギリスでは数少ない大学の一つでした。 正規の入学資格を持たない日本人青年たちは「聴講生」という立場での受け入れとなりましたが、 化学者アレキサンダー・ウィリアムソン教授が身元引受人を買って出て自宅に住まわせ、化学・数学・土木・鉱山学など、 当時の日本にはまだ存在しなかった実学を手ほどきしたと伝えられています。
興味深いのは、この2年後の1865年、同じく攘夷を掲げていたはずのもう一つの雄藩・薩摩藩からも19人からなる使節団がひそかに渡英し、 うち14人が同じくUCLでウィリアムソン教授のもとに学んだことです。のちに初代文部大臣となる森有礼、大阪商法会議所を設立した五代友厚、 外交官として活躍した寺島宗則らを含むこの「薩摩十九人」は、長州ファイブとは別に、しかし同じ大学・同じ教授のもとで、 同じ時代に近代化への扉をこじ開けようとしていました。本来は犬猿の仲だったはずの薩摩・長州の若者たちが、 期せずしてロンドンの同じ教室で机を並べていたことになります。
帰国後
密航という賭けは、日本の近代化に直結する5つの分野の礎として結実しました。
1841–1909
「内閣の父」/初代内閣総理大臣
大日本帝国憲法の起草を主導。詳しくは「維新の志士たち」のページへ。
1836–1915
「外交の父」/初代外務大臣
長崎製鉄所での国産鉄砲製造、国内初の鉄橋建設に関わったのち、造幣局知事、そして初代外務大臣として条約改正に尽力した。
1837–1917
「工学の父」/工部卿
グラスゴーで造船・機械技術を学び、帰国後は工部省の設置と工学寮(現・東京大学工学部)創設を建議。日本の工学教育の基盤を一人で築いた。
1836–1893
「造幣の父」/造幣局長
大阪造幣局の建設に携わり、後に造幣局長に就任。1889年、日本人技術者だけの手で銅貨の鋳造に成功させた。造幣局の桜並木「通り抜け」を創設したのも遠藤である。
1843–1910
「鉄道の父」/鉄道庁長官
1872年、新橋〜横浜間に日本初の鉄道を開通させた立役者。以後、東海道本線・東北本線の建設を主導し、鉄道技術者の育成にも力を注いだ。5人の中で唯一、萩城下の生まれ。
藩の禁を破ってでも、この目で西洋を見なければならない。長州ファイブの渡航動機として、しばしば語られる趣旨(要約)
肖像写真(渡英当時・後年):萩博物館蔵、遠藤謹助のみ造幣局蔵(萩市観光協会公式サイトより)
史跡をめぐる
渡航前の学びの場から、帰国後にそれぞれが築いた邸宅まで。萩の町を歩けば、5人の足跡に出会うことができます。
次を読む
長州の人脈は明治政府の中枢だけでなく、日本の産業界にも及びました。藤田財閥を興した藤田伝三郎、日産コンツェルンを築いた鮎川義介の物語へ。