藩校
萩藩校・明倫館は1718年(享保3年)、5代藩主・毛利吉元によって創建されました。江戸時代を通じて全国に置かれた藩校はおよそ300校といわれますが、明倫館はそのうち12番目に古いもので、 設備・教育内容ともに全国有数の規模を誇りました。当初は三の丸にありましたが、1849年に現在の江向の地へ移転・拡張されています。
教育の中心は儒学でしたが、剣術場・槍術場・砲術場・水練池まで備えた文武両道の教育機関で、蘭学や兵学も取り入れられました。 吉田松陰は11歳のとき、藩主・毛利敬親の御前で兵学書『武教全書』を講義したと伝えられており、明倫館は松陰にとっても最初の教育の場でした。 後に大村益次郎(近代日本陸軍の基礎を築いた兵学者)が教授として教壇に立つなど、明治以降にも人材を送り出し続けています。
南門・観徳門・有備館は、いずれも旧萩藩校明倫館から現存する遺構です。
学びの三層構造
萩の教育は一つの学校で完結していたわけではなく、身分ごとに異なる学びの場が町の中に重層的に存在していました。
藩士の子弟が学ぶ公的な教育機関。儒学を中心に、武術・兵学まで含む総合教育を行った。
身分を問わず学べた民間の塾。松下村塾のほか、萩城下には藩士・学者が開いた私塾が複数存在した。議論や実学を重視する塾も多かった。
町人・農民の子が通い、読み・書き・そろばんといった実用的な初等教育を受けた。江戸後期の日本全体で数万か所存在したとされ、庶民の識字率を高い水準に押し上げた。
数字で見る教育密度
山口県教育委員会の調査によると、全国の教育機関数における長州藩(現・山口県)の位置づけは、次のように報告されています。
藩校(上層の武士教育)で全国1位、寺子屋(庶民教育の基層)で全国2位、私塾(中間層の私的な学び)でも全国4位。 一つの藩がこれほど広い階層で高順位を占めるのは全国的にも珍しく、明倫館・松下村塾だけでなく、萩・長州全域に学びの場が分厚く重なっていたことがうかがえます。
人口あたりで見ると
学校の「数」だけでは、藩の大きさによる差がわかりません。当時の人口で割ってみると、その密度がより実感しやすくなります。
| 区分 | 全国平均 | 長州藩 | 密度の差 |
|---|---|---|---|
| 藩校 | 約28.9万人に1校 | 約2.3万人に1校 | 約12倍 |
| 寺子屋 | 約2,000人に1校 | 約360人に1校 | 約5.6倍 |
| 私塾 | 約2.7万人に1校 | 約4,400人に1校 | 約6.2倍 |
計算には、長州藩の天保期(1830年代)の全領人口 約46万7,000人と、江戸幕府調査による天保5年(1834年)の全国人口 約3,120万人を用いました。 これらは山口県教育委員会調べの藩校・寺子屋・私塾の数と厳密に同一年のデータではなく、また当時の人口調査自体にも武士人口の扱いなど集計上の限界があるため、あくまで目安としての試算です。 それでも、藩校で約12倍、寺子屋で約5.6倍、私塾で約6.2倍という差は、単純な学校数の比較以上に、長州藩の教育インフラがいかに人口規模に対して分厚かったかを物語っています。
背景
江戸時代後期の日本は、身分を越えて寺子屋が広く普及したことで、当時の世界でも際立って高い識字率を実現していたと多くの研究で指摘されています(地域・身分により差はあるものの、都市部では相当な高水準だったとされます)。 萩のような城下町では、藩校・私塾・寺子屋が重なり合うことで、武士だけでなく町人・農民の子にも学びの機会が開かれていました。 幕末に松下村塾のような小さな私塾から次々と人材が育った背景には、こうした教育インフラの厚みがあったのです。
学は人たる所以を学ぶなり。吉田松陰「講孟余話」より(趣意)
教える人を、教えた人
松下村塾も明倫館も、松陰一人の手柄ではありません。塾を最初に開いた人物、そして明倫館の教壇に立ったもう一人の異才にも、萩の教育の厚みが表れています。

1810–1876
松下村塾の創設者/松陰の叔父
1842年、自宅に松下村塾を開いたのは松陰ではなく、この玉木文之進でした。松陰にとっては叔父にあたり、幼少期の松陰に極めて厳格な教育を施したことでも知られます。維新後は萩の乱に一族から連座者を出し、その責を負って自刃しました。

1824–1869
明倫館教授/近代陸軍の基礎を築いた兵学者
周防国(現・山口市)出身の蘭学者・医師。明倫館で洋式兵学を教授し、長州藩の軍制改革を主導した。維新後、新政府軍の司令官として活躍し「日本陸軍の父」とも呼ばれるが、1869年、京都で反対派に襲われ落命した。
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豊かな教育を支えたのは、日本海と阿武の山々がもたらす食資源でもありました。萩の自然と食文化へ。