
吉田松陰 よしだ しょういん
思想家・松下村塾主宰/萩城下松本村生まれ
兵学師範の家に生まれ、9歳で明倫館の教壇に立った早熟の学者。ペリー来航時に海外密航を試みて投獄され、出獄後に松下村塾を主宰した。「身分に関わらず学べば人は変わる」という信念のもと、後の総理大臣や陸軍元老となる若者たちを育てた。安政の大獄に連座し、満29歳で処刑された。
学びの原点
松下村塾の物語は、実は塾ではなく牢獄から始まっています。1854年、下田でペリー艦隊への密航を試みて失敗した松陰は、萩に送還されて野山獄に投獄されました。 普通なら絶望のうちに過ごすはずの獄中生活で、松陰は驚くべき行動に出ます。同じ牢につながれていた囚人たちに『孟子』を講じ始めたのです。
野山獄には、罪状も年齢もさまざまな囚人たちがいました。当初は乗り気でなかった者たちも、松陰の熱心な講義に次第に引き込まれ、 俳句が得意な囚人は俳句を、書に長けた囚人は書を教えるなど、牢獄全体がいつしか互いに学び合う場に変わっていったと伝えられています。 この獄中での講義録は、のちに『講孟劄記(こうもうさっき)』としてまとめられ、後年「講孟余話」として広まりました。 「学びの町」のページで紹介した「学は人たる所以を学ぶなり」という言葉も、この獄中での学びから生まれたものです。
1855年、松陰は野山獄を出されるものの、今度は実家である杉家での幽閉処分となります。しかしこの獄中での経験こそが、 身分や境遇を問わず誰もが学び、教え合えるという、後の松下村塾の教育の原点になったといえるでしょう。
その学びを支えていたのは、松陰自身の凄まじい読書量でした。29年の生涯で読んだ書物は生涯通算でおよそ1万冊にのぼるとも語り継がれ、 年間にして千冊近いペースで読み進めていた時期もあったとされています。この読書量を裏づけるように、野山獄での獄中生活を記した 『野山獄読書記』には、限られた期間のうちに数百冊規模の書物を読破した記録が残されており、松陰自身も獄中の日々を「天下の至楽」と語ったといいます。 日々読書と著述に打ち込み続けた、まぎれもない勤勉の人でもあり、塾生たちに惜しみなく知識を授けることができたのは、 こうした尋常でない量の読書に裏づけられていたからにほかなりません。
松下村塾
吉田松陰が叔父・玉木文之進から引き継いだ松下村塾は、萩城下の外れ、杉家の敷地内にあった八畳一間の小さな私塾でした。 安政4年(1857年)11月から、安政の大獄で投獄される安政6年(1859年)までの実質2年半ほどの間に、 久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、山縣有朋、前原一誠ら、後に明治政府の中枢を担うことになる若者たちがここに集いました。 身分の上下を問わず塾生と机を並べて議論する松陰の教え方は、当時としては異例のものでした。
塾生の多くは、松下村塾のあった松本村や、そこから歩いて通える萩城下近郊に暮らす若者たちでした。武士の子弟はもちろん、 足軽・中間といった下級武士や、なかには農民・町人の子まで机を並べていたといわれ、家柄より学ぶ意欲そのものが入塾の事実上の条件でした。 最盛期には塾生の数が90人を超えたとも伝えられ、もとの8畳一室にはとても収まりきらなくなっていきます。
手狭になった塾を広げたのは、業者ではなく松陰と塾生たち自身でした。安政4年(1857年)、8畳の一室に隣接して、 松陰みずから鍬や鋸を手に取り、塾生たちと力を合わせて増築工事を行い、10畳半の部屋を新たに設けたと伝えられています。 師と弟子が机を並べて学ぶだけでなく、汗を流して建物まで一緒に作り上げた経験は、松下村塾に集った若者たちの強い結束力の土台になったのかもしれません。
身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし大和魂吉田松陰「留魂録」(安政6年・1859年、処刑直前に記す)
松陰自身は安政の大獄に連座し、満29歳で刑死しています。塾を主宰した期間の短さと、その後の門下生たちが果たした役割の大きさのギャップこそが、松下村塾が「わずか八畳から明治維新が生まれた」と語られる理由です。
松陰の教え方は、一方的に講義をする一斉授業ではありませんでした。塾生同士が車座になって書物を読み合い、意見を交わす「会読」を中心に据え、 松陰自身も一人の議論相手として加わったといいます。身分の上下や年齢を問わず対等に議論させるこの方式は、武士の子弟以外にも学びの門戸を開くことにつながりました。
さらに松陰は、塾生一人ひとりの気質や得意分野を鋭く見抜き、学ぶ内容や課題を塾生ごとに変えていたとも伝えられています。 たとえば久坂玄瑞を「識」、高杉晋作を「才」の人物と評したように、それぞれの資質を的確に見極めていました。 日々の書物だけでなく、諸藩の動きや海外情勢の情報にも目を通させ、机上の学問にとどまらない実践的な議論を促したことも、 松下村塾の教育を特徴づけています。
草莽崛起(そうもうくっき)高い身分の者だけでなく、在野の一人ひとりが立ち上がるべきだ――松陰が説いた思想。奇兵隊のような身分を問わない軍事組織や、後の四民平等の発想にまでつながっていく萌芽だったとも評される。
草莽崛起、もうひとつの物語
思想として説かれた「草莽崛起」は、幕末の萩でより具体的なかたちをとることになります。萩の浜辺に今も残る、小さな土塁がその証人です。
文久3年(1863年)5月、下関海峡で外国船への砲撃を決行した長州藩は、激しい反撃を受けて敗退しました。 報復として外国艦隊が萩城下にも来襲するのではないか――そうした危機感から、上陸地点になりうると見られた菊ヶ浜に、 急ぎ台場(砲台を築くための土塁)が築かれることになります。
ところが、藩の男たちの多くはすでに下関方面へ出兵しており、城下には人手が足りません。 そこで工事にあたったのが、身分や貧富を問わず駆り出された老人や女性たちでした。武士の妻や奥女中までもが土を運び、 土塁を築くための労役に加わったと伝えられています。この史実こそが、「女台場(おんなだいば)」という呼び名の由来です。 松陰が説いた「身分の高い者だけでなく、在野の一人ひとりが立ち上がるべきだ」という理念は、 奇兵隊のような武士以外の軍事組織だけでなく、こうした女性たちの働きのうちにも、確かに息づいていたのかもしれません。
六人の軌跡
生まれ、学び、そして幕末から明治へと駆け抜けた人々を、事績とともに紹介します。

思想家・松下村塾主宰/萩城下松本村生まれ
兵学師範の家に生まれ、9歳で明倫館の教壇に立った早熟の学者。ペリー来航時に海外密航を試みて投獄され、出獄後に松下村塾を主宰した。「身分に関わらず学べば人は変わる」という信念のもと、後の総理大臣や陸軍元老となる若者たちを育てた。安政の大獄に連座し、満29歳で処刑された。

奇兵隊創設者/萩城下菊屋横丁生まれ
松下村塾で学んだ「四天王」の一人。1863年、下関で身分を問わない志願兵部隊「奇兵隊」を組織し、武士の専有物だった戦をくつがえした。1865年には劣勢だった藩論を倒幕へと一気に傾ける功山寺挙兵を主導。維新の直前、肺結核のため27歳で病没した。

維新三傑の一人/萩城下呉服町生まれ
新選組らに追われ「逃げの小五郎」の異名を持ちながら、薩長同盟の締結という維新最大の外交を成し遂げた。明治政府では五箇条の御誓文の起草に関わり、版籍奉還・廃藩置県を主導。西郷隆盛・大久保利通と並び「維新三傑」の一人に数えられる。

初代内閣総理大臣/熊毛郡束荷村(現・光市)生まれ、萩藩の足軽身分の家に養われ松下村塾に学ぶ
生まれは萩ではないが、幼くして萩藩の下級武士の養子となり、松下村塾で松陰の教えを受けた。1863年、長州ファイブの一員として密航渡英。帰国後は初代内閣総理大臣(通算4回)を務め、大日本帝国憲法の起草を主導した。1909年、ハルビンで暗殺された。

陸軍の父/内閣総理大臣(第3・9代)/萩城下川島生まれ
松下村塾に学び、奇兵隊の軍監として頭角を現す。明治政府では徴兵制を導入し、日本陸軍の基礎制度を一から築いた「陸軍の父」。内閣総理大臣を二度務めたのち、元老として長く政界に影響力を持ち続けた。

初代外務大臣/周防国湯田村(現・山口市)生まれ
萩の外ではあるが長州藩士として1863年、伊藤博文らと長州ファイブの一員に。造幣局の創設や国内初の鉄橋建設に携わったのち、初代外務大臣として不平等条約改正に長く取り組んだ。詳しい渡英の物語は「長州ファイブ」のページで。
肖像はいずれも明治期以前・明治期に描かれた肖像画または撮影された古写真です。
塾生たちの、その後
松下村塾に学んだのは、この6人だけではありません。なかでも久坂玄瑞と前原一誠は、明治という時代の光と影を体現するような、対照的な「その後」をたどった人物として知られています。
同じ師のもとで学んだ8人のうち、久坂玄瑞・高杉晋作・吉田松陰の3人は30歳を待たずに世を去っています。明治という新しい時代を実際に築き、長く生きたのは、 むしろ維新の動乱を生き延びた木戸孝允以降の面々でした。

1840–1864(享年24)
松下村塾四天王の一人/松陰の妹婿
松陰に「防長年少第一流の人物」と評された俊英。尊皇攘夷運動の急進派を率い、松陰の妹・文と結婚して塾とも深く結びついた。1864年、京都で朝廷への復権を試みた禁門の変で長州軍が敗れると、自刃して果てた。享年24。

1834–1876(享年42)
維新の元勲/萩の乱の首謀者
戊辰戦争で活躍し、明治新政府では参議・兵部大輔まで務めた元勲の一人。しかし急進的な改革方針や秩禄処分に反発して下野し、1876年、不平士族らとともに萩で武装蜂起(萩の乱)を起こす。鎮圧され、処刑された。維新を推し進めた側の人間が、その新政府に反旗を翻した例として知られる。
久坂玄瑞・前原一誠の肖像も、いずれも明治期以前・明治期に撮影・制作されたとされる古写真・肖像です。
ゆかりの地を歩く
松下村塾(写真は本ページ冒頭)のほかにも、萩の市内には維新の志士たちの生きた跡が今も残っています。
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井上馨、伊藤博文を含む5人は、実は鎖国の禁を破って密航していました。その顛末は次のページで。